jyonyblog’s diary

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「テレビなめてんのか!」49歳光浦靖子は“優しくなかった”お笑い界をどう生き抜いたか、ガマの上沼恵美子の様にしぶとくずうずうしく生きよう

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 先の日曜日、5月17日にフジテレビ系で放送された『ボクらの時代』では、オアシズ大久保佳代子光浦靖子に、いとうあさこを加えた女性芸人3人がリモート出演して、トークを繰り広げた。

 このとき、光浦だけは自宅ではなく、妹夫婦の家からの出演だった。じつは彼女は、この4月からカナダに留学する予定で、住んでいたマンションにも2カ月前に退室を伝えていた。だが、そのうちに新型コロナウイルスの影響が世界中に拡大し、とても留学できる状況ではなくなってしまう。マンションには契約上とどまれず、新たに部屋を探さねばならなくなったとき、妹夫婦から「うちに2週間ぐらい泊まって、ゆっくり探せば?」と言われ、好意に甘えることにしたという。居候生活はすでに1カ月半をすぎ、食事も光浦がつくっているようだ。

小学校からの“幼なじみ”大久保佳代子とテレビに出るまで  その光浦は1971年5月20日生まれ。きょうが49歳の誕生日である。相方の大久保はその8日前の5月12日、同じく愛知県田原町(現・田原市)に生まれている。2人は小学校から高校まで一緒で、気の合う女子どうし何人かで集まっては遊ぶ仲だった。高校時代、2人のいるグループは教師から怒られてばかりだったが、そのたびに仲間内で笑いのネタにしては楽しんでいたという(※1)。

 高校卒業後、光浦は東京外国語大に入学すると、千葉大に進んだ大久保を誘って早稲田大学の寄席演芸研究会に入った。大学3年だった1992年にはオアシズ(当初はオアCズ)を結成。このままずるずるやっていたら就職できなくなると思い、一度どこかのオーディションを受けてガツンと言われたほうが、就職する踏ん切りがつくだろうと、落ちるつもりでプロダクション人力舎のライブを受けて合格する。予想外の展開に、《すぐに飽きられて仕事もこなくなるだろうから、それまでやってみよう》というぐらいの軽い気持ちで芸能活動を始めた(※2)。

 そこへさらにチャンスが訪れる。ライブを観に来たフジテレビのディレクターに声をかけられ、深夜の新人発掘番組『新しい波』に出演することになったのだ。もっとも、光浦があとで知ったところによれば、もともとキャスティングされていた別の女性コンビが解散したため急遽、代役を見つけねばならず、そこで自分たちに声がかかったらしい(※3)。

「テレビなめてんのか!!」から生まれた伝説
 収録を前に、ネタは何本持っているかと訊かれ、3つしかなかったにもかかわらず、10本持っているとウソをつくも、すぐにバレてしまう。ADから「テレビなめてんのか!!」とさんざん怒られたあげく、収録までの数日間、局のリハーサル室に閉じこめられ、スタッフたちとネタをつくった。しかし無理やりつくったネタは当然のように面白くなく、結局、番組の半分以上がトークという編集にされてしまう。ネタで失敗したのを挽回するように、トークで光浦はしゃべり倒した。ここから、ひとつの伝説が生まれる。司会を務める当時新人アナウンサーだった西山喜久恵(現フジテレビ・チーフアナウンサー)とは、かつて寄席演芸研究会のコンパで出会っていたことから、それをネタにトークを繰り広げたのだ。『新しい波』のディレクターのひとりだった片岡飛鳥によれば、そこではこんなやりとりがあったという。

《光浦が「私たちブスは、早稲田の男子から口をきいてもらうこともなく、一番端っこの“ブス席”で飲んでた。そしたらその日、『今日はゲストとして、なんとフジテレビに内定を受けたアナウンサーが来ます』って西山さんが現れたんだ」と物怖じもせず一気にまくしたてた。「男子からバカみたいにチヤホヤされてたアンタには私たちブスの苦しみがわかってないから!」「いや、そんなことないです」って西山は一応言うんだけど、わかるはずがない(笑)》(※4)

 片岡は、《たぶん、テレビの歴史で初めて、いわゆる自虐のブストークが面白くなった》と、このときのトークがエポックをつくったと評している(※4)。事実、テレビのクロストークでブス役に徹しながら、女子アナウンサーやアイドルなどを“美しい敵キャラ”とみなして攻撃し、笑いをとる手法は、オアシズ以降、多くの女芸人に広まっていった。

「きょうもダメだった」光浦の“地獄のような日々”  翌1993年、光浦は新たに始まった深夜のユニットコント番組『とぶくすり』(フジテレビ)の出演メンバーに抜擢される。共演するのはやはり『新しい波』で才能を見出されたナインティナインよゐこ極楽とんぼという面々で、女芸人は光浦のほかに本田みずほがいたものの、大久保は外された。これについて同番組でもディレクターを務めた片岡飛鳥は、《当時の僕はマンガみたいなブスだった光浦にだけ目を奪われて、目立たなかった大久保のことは『とぶくすり』に起用しなかったんです》と後年明かしている(※4)。

 のち1996年には、ほぼ同じメンバーで土曜のゴールデンタイムに『めちゃ×2イケてるッ!』が始まったが、大久保が合流するまでには1999年まで待たねばならなかった。この間、OLとして働いていた大久保に対し、光浦は“地獄のような日々”をすごした。本人いわく《その時代、お笑い界は「蹴落とし合いだ」みたいな風潮で、みんなピリピリしてて怖かった。誰も話しかけてくれない。コントのリハも朝から明け方まで続き、胃がいつもシクシクした》日々のなか、帰りのタクシーではいつもフジテレビ社屋の球体展望台を見ながら「きょうもダメだった」と思っていた。それがやがて球体に《この番組が終わるまでに五百回笑いが取れますように》と祈るようになったという(※3)。『めちゃイケ』の共演者とはその後、しだいに打ち解け、互いに言いたいことを言い合えるまでになった。その番組が前身の『とぶくすり』から数えて25年で終わるにあたり、彼女は次のように書いている。

《五百回笑いを取るのに二十五年かかったか。二十五年。まんま私の芸歴。手放しで好きになって、ありがたみを感じ、百パーの気持ちで感謝すると、別れは来るんだよな。もう少し腐ってればよかった》(※3)

芸能界で感じた手詰まり「女芸人は逆につらくなっちゃう」  90年代に思いがけずデビューして以来、光浦は大久保とともに女芸人として新たな道を切り拓いていった。だが、自分たちのつくった手法がほかの芸人にも広まっていくにしたがい、手詰まりも感じるようになる。2011年にオアシズの2人で出席した対談では、《女芸人は性格がいいと思われていたのに、私は女を敵に回して(中略)人を否定して笑いをとるということでは、いちおうフロンティアなんですよ。それを今はあたりまえのようにみんながやっとるもんで、なんだかなぁ……と》と、複雑な心中を打ち明けていた(※5)。

 そこへ来て“ブス”で笑いをとることも、世の中の変化もあり難しくなってきた。これについて光浦はコラムニストのジェーン・スーとの対談で、自分が笑いの世界でいい思いができたのは、この世界が男社会だからと認めたうえ、《みんなが平等になろう平等になろうってことをやっていったら、まぁ女芸人は逆につらくなっちゃうんじゃない、って私は思ってる》と危惧した(※6)。その一方で、男性のつくる番組での振る舞い方の難しさについて、こんなことも語っている。

《男の人って組織の生き物なのか、やっぱりパスワークみたいなもんがあるもんで、優しいMCの人が名指しでふってくれたら女の人も喋れるけど、そうじゃないと、なかなかパスワークのなかには入れない。(中略)自分でやってて「うわー楽しかったこの番組」っていうのは、やっぱり少人数でたっぷりトークできた時。いっぱいおるなかで、一時間二言しか喋るとこがなくて、二秒ずつ四秒与えられて、で面白いこと言えって……できないんですよ、私》(※6)

「やることがないと本当につらいから」第2の人生の計画  芸能活動で自らの限界を感じるとともに、私生活では独身生活を続けていることもあり、歳をとって《やることがないと本当につらいから》と、羊毛フェルトの手芸などに力を入れるようになった(※7)。エッセイや人生相談などで文才も発揮している。将来は沖縄に一度は住みたいとも、以前より語っていた。冒頭でとりあげた『ボクらの時代』のトークで、カナダへの留学を予定していたことを明かし、50歳を前に第2の人生も同時に進めたいと決意を表明したのも、その延長線上にあるのだろう。

 同番組中に光浦が語ったところによれば、仕事の数が一時より減ってきており、ここから盛り返すことに賭けるか、あるいは「誰かに求められているからいい」だけではない別の何かを持っていないと不安になると思い、そこから考え方を少しずつ変えていった。そのなかで、文房具屋や手芸屋など、幼いころからの夢をかなえたいという気持ちも湧き、「1個を大成することは私はできないけど、もしかしたら、人よりたくさんの夢をかなえるのもかっこよくないかなと」思うようになったという。

『ボクらの時代』ではまた、居候中、妹夫婦が子育てに追われるのを見て、その大変さを思い知ったとも語っていた。そこから、自分は独身で時間がたっぷりあるから、普通だったらみんな忙しくて見過ごしてしまうような小さなことも、いちいち拾って、大きな悩みや怒りに変えてしまっていたところがあると気づいたという。そんなふうに自分の行ないを反省する光浦に対し、相方の大久保が、「そういう小さなことを拾ってきたから、光浦靖子という芸人が生まれたんだと思うよ」とフォローしていたのが印象に残った。途中で友達から相方へと関係性は変わったものの、40年以上もそばで見てきたからこその発言だろう。このやりとりに、いずれコロナ禍が収まったときには、また以前のように同じ場に会したオアシズの2人が、トークやコントを繰り広げるのを見たくなった。

※1 光浦靖子大久保佳代子『不細工な友情』(幻冬舎、2006年)
※2 「タレント 光浦靖子 “お笑い”で食べていこうなんて気はありませんでした。」(『第三文明』2003年8月号)
※3 光浦靖子『ハタからみると、凪日記』(毎日新聞出版、2018年)
※4 片岡飛鳥てれびのスキマ「「ブスをビジネスにする――光浦靖子は発明をした」『めちゃイケ片岡飛鳥の回想 フジテレビ・片岡飛鳥 独占ロングインタビュー#6」(「文春オンライン」2019年4月13日)
※5 「林真理子 マリコのゲストコレクション 593 お笑い芸人 オアシズ」(『週刊朝日』2011年11月25日号)
※6 ジェーン・スーほか『私がオバさんになったよ』(幻冬舎、2019年)
※7 光浦靖子柴田英嗣「対談・ワケあって独身です 白馬の王子を待つ女と尽くす妻を求める男」(『婦人公論』2017年8月8日号) 

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